大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和45年(刑わ)3067号 判決 1973年5月28日

被告人 山中章伍

昭一一・一二・二〇生 日本国有鉄道職員(電車運転士)

主文

被告人を禁錮一年六月に処する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和三二年四月日本国有鉄道(以下「国鉄」という。)に入社し、宇都宮機関区整備係を経て、同年一二月同機関区機関助手となり、昭和三六年一月中央鉄道学園電車運転士科に入園し、同年六月同学園を卒業して東京鉄道管理局武蔵小金井電車区電車運転士見習となり、同年一〇月からは同局中野電車区電車運転士として、電車の運転業務に従事していた者であるが、昭和四三年七月一六日、国鉄東京駅から同駅午後一〇時三四分発同高尾駅行第二二〇一F一〇両編成電車に電車運転士として乗務し、同電車を運転して同日午後一〇時三六分ころ、乗客約五四五名を乗せて国鉄神田駅を発車し、国鉄御茶ノ水駅(東京都千代田区神田駿河台二丁目六番地所在)に向け、中央線下り本線上を時速約六五キロメートルで進行し、同日午後一〇時三八分ころ、同駅構内第二場内信号機の手前にさしかかつた際、同信号機が「黄(注意)」信号を現示しているのを認めたのであるが、同駅場内信号機の構造上、右第二場内信号機が「黄(注意)」信号を現示している場合にはその前方約二一四メートルの地点の同駅ホーム上の設置してある第三場内信号機は「赤(停止)」信号を現示する構造になつていることを十分に知悉していたのであるから、このような場合、右第三場内信号機が「赤」信号を継続現示し、同信号機の内方に先行電車が存在していることを当然予測し、同信号機の手前の地点で停止することができるよう右第二場内信号機の現示にしたがい、直ちに時速四五キロメートル以下に減速して進行し、もつて先行電車との衝突による事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、漫然僅かに減速したのみの速度で進行を継続した業務上の過失により、右第二場内信号機の地点を通過し右第三場内信号機の手前約一四六メートル付近の地点に接近して同信号機が「赤」信号を現示しているのを発見し、同時に、同信号機付近進路上に停車中の先行電車(国鉄豊田駅行第二二三九F荒野郁雄運転の一〇両編成)を認め、危険を感じて非常制動の措置を講じたが時すでにおそく、右第三場内信号機をこえた二メートル三〇センチ付近で、右先行電車の最後部に、自車の最前部を追突させ、よつて、右各電車を破壊するとともに(被害合計約一九〇〇万円相当)、その際の衝撃等により、別紙受傷者一覧表(一)および(二)記載のとおり、右第二二〇一F電車の乗客赤松静子に対し、全治約三ヶ月間を要する胸部打撲および左肋骨骨折等の傷害を負わせたほか、右両電車の乗客合計一〇二名に対し、それぞれ同表記載の各傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)(略)

(弁護人の主張に対する判断)

一、本件二二〇一F電車の運転方法について

まず、本件二二〇一F電車が御茶ノ水駅第二場内信号機(2R)を通過した際の速度につき、検察官は時速六二・三キロメートルであると主張し、弁護人は時速五五キロメートルに過ぎなかつたと主張するので右の点について検討する。

前掲各証拠ことに被告人の前掲各供述調書並に当公判廷における供述によると、被告人は、神田駅を発車してから時速約六五キロメートルまで力行して惰行に移り、御茶ノ水駅第一場内信号機(1R)の手前で軽く常用ブレーキをかけ、第二場内信号機(2R)に接近して再び常用ブレーキを徐々にかけながら進行し、第三場内信号機喚呼標(ホーム手前約二九メートル、衝突地点までの距離一五三・三メートル)ないし28L(ホーム手前約一九メートル、衝突地点までの距離一四三・三メートル)付近にさしかかつた際第三場内信号機(3R)が停止信号(R)を現示し、先行電車が停止しているのを発見してあわてて非常制動の措置をとつたものであることが認められる。

ところで、被告人の前掲各供述調書中には、第二場内信号機通過時の速度または第三場内信号機現認時における速度について次のような供述記載の存することが明らかである。

調書作成月日

種別

供述要旨

1

43・7・17

2R 五〇キロ

2

43・7・17

2R 五〇キロ

3

43・7・20

2R 六〇キロ

4

43・7・21

2R 六二~三キロ

5

43・7・23

2R 六二~三キロ

6

43・7・26

非常制動時 六一~二キロ

7

43・7・26

右同

8

43・7・29

2R 六二~三キロ

9

43・8・5

非常制動時 六一~二キロ

10

43・8・6

2R 六二~三キロ

非常制動時 五〇~六〇キロ

右に明らかなように、被告人の司法警察員に対する昭和四三年七月一七日付供述調書では、第二場内信号機通過速度が五〇キロメートルとされているけれども、鑑定人戸村雅作成の鑑定書によれば、第二場内信号機通過時の速度が五〇キロメートル以内であれば、A・T・S装置が作動して第三場内信号機(3R)の外方に停止するものと認められるから、右供述記載はにわかに措信できず、被告人が右のような供述をしたのは、事故直後で動揺していて記憶が正確に喚起できなかつたためではないかと思われる。

そこで結局、非常制動開始時の六一~二キロメートルは第二場内信号機通過時の速度六二~三キロメートルと同趣旨であると一応解してよいから、結局右各供述記載の第二場内信号機通過時の速度が時速六〇キロメートルあるいは六二~三キロメートルとするところが措信し得るかどうかが検討されなければならない。被告人の当公判廷における供述によれば、被告人が運転中の進行速度について供述するところは、速度計を見ていたわけではなく、日頃の運転経験から推測したものであることが認められるから、それは概括的には一応信頼しうるものとは考えられるが、どこまでも経験上の推測であるので、その正確性については尚若干の吟味を必要とするところ、検察官は、前掲戸村鑑定書の計算方法にもとづき、衝突による電車移動距離を五・五五メートルとし、衝突速度を二三・六キロメートルであると算定したうえ、28Lの地点における制動初速度は計数上六五キロメートルに近い速度になるとし、被告人の検察官に対する供述調書における非常制動開始時の速度が六一~二キロメートル位とする供述記載は措信しうるものとしている。ところで弁護人は、前掲戸村鑑定書における衝突初速度の算定方法には信頼性に疑問があると主張するが、他に特段の資料の存しない限り鑑定の結果はこれを用いるべきものであることはいうまでもないところである。そこで弁護人は同じ専門家である証人宇佐美雄二の証言並びに同人作成の「中央線お茶の水駅構内衝突事故の推定ランカーブについて」と題する書面によれば、衝突速度は二〇キロメートルであるというのであるから、被告人に有利な二〇キロメートルをもつて衝突速度であると認定すべきであると主張するが、右証言及び書面は独自の見解を述べているに止まり、前掲戸村鑑定書の鑑定の合理性を直ちに否定するに足るものとは認められないから、弁護人の右主張は採用することができない。

もつとも、前掲各証拠とくに司法警察員および検察官作成の各実況見分調書、東京鉄道管理局作成の昭和四三年七月一七日付「中央線御茶ノ水駅構内における列車衝突について」と題する書面によれば、先行電車である二二三九F電車が衝突直前に停止していた地点は、右運転局作成の書面記載のとおり、第三場内信号機の内方約二・三メートル地点付近であり、従つて本件両電車の衝突地点も右の地点であると認めるのが相当であり、また、右二二三九F電車が衝突後停止した位置は、第三場内信号機の内方約七・八五メートルであることも右各証拠により明らかであるから、右二二三九F電車が衝突によつて移動した距離は約五・五五メートルであると認めるのが相当である。そうすると、戸村鑑定書(六八頁)が、衝突速度を二九・五キロメートルとしているところは、衝突移動距離が八・三九五メートルであることを前提としていること同鑑定書の記載により明らかであるから(六六頁ないし六八頁)、右衝突速度の結論自体は右移動距離五・五五メートルにもとづき修正する必要のあることは勿論である。

次に弁護人は、検察官の推論における計算に制動の際における空走時間ないし空走距離が考慮に入れられていないのは不当であると主張する。

運転士が停止信号を発見してから非常制動の措置をとるまで(反応時間)、及び制動措置をとつてから制動が開始するまで(空走時間)には若干の時間を要することは明らかであり、前掲宇佐美証人の証言によれば、前者は通常一秒ないし三秒、後者は一秒を要するものとされているから、制動初速度を算定するに当つては右の点を考慮に入れることが必要であることは弁護人主張のとおりであると解せられる。

前掲戸村鑑定書における28Lの地点で手動非常ブレーキをかけた場合の制動距離の算定(七八頁、七九頁)には右の点が考慮されていないから、右の算定は制動が開始してからの実制動距離であると解され、従つて検察官主張の前記六五キロメートルの数値も28Lにおいて制動が開始したことを前提とした同地点での速度であることが明らかであって、これに反応時間を一秒ないし三秒、空走時間を一秒として計算してみると28Lまたはホームの手前約三〇メートルの地点における速度は時速約五五キロメートルないし六〇キロメートルの間となり(これは衝突速度を二三・六キロメートルとした場合の弁護人の計算ともほぼ一致する。)、これに弁護人主張の誤差を考慮すると、同地点通過時の速度が時速五〇キロメートル位であつたとの可能性も全く否定することはできないけれども、上限が少なくとも時速六〇キロメートルであつたとの可能性も否定することはできないこともまた明らかであるといわなければならない。そして、第二場内信号機(2R)通過時の速度は、以上の数値に検察官主張のように一、二キロメートルを加えるとして五六~七キロメートルないし六一~二キロメートル、弁護人主張のように自然減速のほか常用ブレーキを操作したことによる減速をも考慮に入れ四ないし五キロメートルを加算するとすれば五九キロメートルないし六五キロメートルになることが明らかである。

以上のとおりであるから、被告人の前掲各供述調書の記載が第二場内信号機(2R)通過時の速度を時速六〇キロメートルあるいは六二、三キロメートルとするところは、当時の客観的な資料にもとづく理論上の推定速度の範囲内にあつて、その蓋然性が客観的に肯認され得るほか、被告人は当時約七年間の電車運転の経験を有していたものであるから、その経験にもとづく速度の推測は一応信頼し得るものと考えられ、また本件二二〇一F電車の乗客であつた証人大橋明敏、同川島知子はいずれも電車が御茶ノ水駅に進入しようとした際の速度が何時もより高速であつた旨証言しているのであつて、以上の諸事情を総合すると前掲各供述記載はこれを措信するに足るものと考えられる。ただ、六〇キロメートルであるとし、あるいは六二~三キロメートルであるとするところは、推測によるものであることからの当然の誤差で、その一方のみが正確なものであると断定することはできないから、結局第二場内信号機(2R)通過時の速度は時速六〇キロメートルないし六二~三キロメートルであり、非常制動時にはそれより若干減速していたものと推認するのが相当であると考える。前掲司法警察員に対する八月六日付供述調書が非常制動時五〇ないし六〇キロメートルとしているところも、右認定を左右するに足りないものと考える。また、被告人は当公判廷において、御茶ノ水駅第一場内信号機通過の際は時速六〇キロメートルも出ていなかつたと供述しているけれども、右は第一回目にブレーキ操作したことにより時速五キロメートル位は減速している筈だからであるということを理由とするものであるが、右ブレーキ操作の程度は証拠上明確でないから、右の供述はにわかに信用することはできない。

以上のとおりであつて、右速度は時速六〇キロメートルないし六二~三キロメートルであると推認されるから、五五キロメートルを出ていなかつたとする弁護人の主張は採用しない。

二、第三場内信号機の性格と結果予見義務について

弁護人は、本件事故につき、被告人に刑事上の過失責任がありとするためには、被告人が第二場内信号機の注意信号現示を確認したときに右信号現示だけから先行電車が後部を第三場内信号機付近に位置させて停止しているという異常な事態を予見することが可能であり、これを予見しなかつたことが責任非難を課さるべき不注意に当るといえることが必要であるが、右はいずれも否定さるべきであると主張する。

なるほど、第三場内信号機が設置されている場合においては、第二場内信号機(2R)が注意信号(Y)を現示しているときには、先行電車が第三場内信号機(3R)をこえて進行中であるのが常態であるということは弁護人主張のとおりであると考えられるけれども、しかし、第二場内信号機(2R)が注意信号(Y)を現示していることが、直ちに先行電車が第三場内信号機(3R)をこえて進行していることを意味しないことも他言を要しないところである。すなわち、本件御茶ノ水駅構内における信号機の構造から、第二場内信号機(2R)が注意信号(Y)を現示していれば前方の第三場内信号機(3R)は停止信号(R)を現示していることになるのであつて(被告人はこの構造を十分知悉していたことは判示のとおりである。)、第三場内信号機(3R)が停止信号(R)を現示していることの意味は、第三場内信号機(3R)直下から前方の出発信号機(17R)までの区間内に、第三場内信号機(3R)直下に先行電車の最後部が存在する場合のあることをも含めてその最後部が存在することを示しているだけであつて、それ以外のことを何ら示すものではないのである。それ故にこそ、第二場内信号機(2R)に注意信号(Y)を現示させ、第三場内信号機の外方に後続電車が停止するに必要な措置がとられているわけである。したがつて、第二場内信号機(2R)が注意信号(Y)を現示しているのを確認した以上、異常な事態ではあるにせよ、第三場内信号機の直下にその最後部を位置させて先行電車が停止しているということは、電車運転士としては当然に予見可能な事柄に属するものであるといわなければならない。そこで弁護人は、本件のような、日常パターンから著しく逸脱し、数十万分の一の確率でしか生じ得ないような異常事態までも予見せよと要求するのは余りにも酷に失すると主張し、本件先行電車の停止状況が極めて異例のものであることはそのとおりであると解されるが、他方、本件事故は、信号の現示に従つた規則どおりのごく通常の運転方法を行なつていれば容易に避けることのできた単純な事故であつて、その予見を要求することは決して困難なことを要求するものではなく、それが酷であるとは到底いうことができない。また、被告人が、日常の運転経験から、第二場内信号機(2R)が注意信号(Y)であれば、先行電車は客扱いを終り出発進行中であるとの潜在意識が条件反射的に培養されていたであろうということは十分に推測されるけれども、多数の乗客の生命の安全を託された高速度大量輸送機関たる電車の運転士にあつては、常時かかる運転の慣れから基本的な注意を怠ることのないよう強く期待されるのであつて、万一の事故の発生した場合の計り知ることのできない重大な結果の可能性にてらしても、本件のような事態をも予見して運転すべきは当然の責務であると考える。したがつて弁護人の右主張は採用することができない。

三、駅側の措置に対する信頼について

次に、弁護人は、本件のように先行電車が駅構内で異常停止した場合には、駅側が後方防護のため、第二場内信号機(2R)第一場内信号機(1R)を含む全場内信号機を停止信号にし、後続電車に対する防護措置をとるべきことが義務づけられているのであり、運転士としては、駅職員が右の義務を忠実に果しているとの信頼が当然に働くのであり、右の信頼を前提にすると第二場内信号機(Y)が注意信号を現示していることから本件のような異常停止状態に対する予見義務は否定されて然るべきであると主張する。

前掲各証拠によると、本件先行電車である二二三九F電車は、定時午後一〇時三三分に御茶ノ水駅下りホームの停車予定位置に停車した。そして約二〇秒客扱いをして発車した際、発車間際にホームからかけこんできた四五才位の氏名不詳の男が、同電車に飛び乗ろうとして前から四両目の第一ドアに手をはさまれた。そこで当時同ホームにいた同駅駅務係の内田秀雄は、これをみて危険を感じその男のところへ近づこうとしたところ電車はその男をドアにはさんだまま発車したので、同人はとつさにホームの非常警報装置用のハンドルを引いて乗務員に急を知らせ、また同電車の窪島車掌も同時にこれに気づいたので、同車掌は、車掌用非常ブレーキを使用して電車を急停車させた。電車は所定の停車位置から約一〇〇メートル進行した地点で停車したので、右内田駅務係が、直ちにその男の乗客を救出すべくドアをこじあけようとしたがドアがあかず、また車掌も、同電車先頭部がすでにホームからはみ出た形で停車していたため、車掌室のドア開閉弁によつてドア全部をあけることは、他の乗客の転落事故が予測されるとしてこれをせず、同駅務係に対し、右乗客が手をはさまれているドアだけを外からDコツクであけるよう指示したので、同駅務係が右措置に出ようとしたところ、右乗客はすでに自力でドアから手を抜いてホームに立つていた。右事故のため同電車は同所に約四分三〇秒停車したが、そこへ二二〇一F電車が進入してきて二二三九F電車に追突した事実が認められる。

そして、弁護人主張のように、運転取扱基準規程は第六条第一項において「運転事故が発生するおそれのあるとき又は運転事故が発生して併発事故を発生するおそれのあるときは、ちゆうちよすることなく関係列車又は車両を停止させる手配をとらなければならない。」旨および第四七八条第一項において「列車防護を行なう場合で信号雷管を装置する箇所が停車場内となるときは、駅長に通告して、その方向に対する防護を省略することができる。」旨を定め、また、御茶ノ水駅運転作業内規も、第二条において「運転事故を発見したとき、またそのおそれのあるときは次の方法で列車の緊急停止の手配をとらなければならない。(1)場内信号機または出発信号機に停止信号を現示する。(2)線路支障報知機を使用する。(3)列車の起動後は列車非常停止警報機を使用する。(4)発炎信号による。(5)信号の手配をとるいとまのないときは停止手信号による(この場合大声を発し、手笛を鳴らす等のあらゆる手段をとること。)」旨を定めており、第一一回公判調書中の証人長谷川忠道の供述記載によれば、御茶ノ水駅のホームと第二場内信号機の中間あたりに線路支障報知装置が設置されており、ホームに何ヵ所か設置されている赤いボタンを押すと電気的に右装置の発煙筒にすぐ点火されると同時に場内信号機も停止が現示される構造になつていることが認められるから、本件二二三九F電車の異常停止に際しては、駅側において、前記内規の定めるところに従い、右装置による後方防禦措置がとられることが当然期待され、本件各証拠によると、若し機敏に右の措置がとられ、第二場内信号機(2R)に停止信号が現示されていたならば、被告人が右現示に従い所定の停止措置を怠らない限り、本件事故を防止できたであろうと考えられる。しかし、被告人が駅側の右措置を信頼し、第二場内信号機(2R)が注意信号(Y)であれば前方の第三場内信号機の内方に先行電車が異常停止をしていることの予見義務がないとは到底いえないこと明らかである。けだし、駅側の後方防禦措置を定めた前記規定・内規の各条項は、運転士が信号の現示に従つて運転を行なうべき義務については何らの変更をも加えていないのであり、運転士と、駅側とがそれぞれの立場で注意義務を守り両々相俟つて事故発生の防止に万全を期するのがその趣旨と解すべきだからである。弁護人主張のように、運転士たる被告人に駅側の措置への信頼が許されるとするならば、逆にまた駅側も運転士の措置に信頼してもよい理ともなつて、かくては相互に相手側の措置に頼つて自己の注意義務を怠ることが許されることとなり、事故の発生は遂に防止することができないことに帰すること明らかであるといわなければならない。したがつて運転士たる被告人としては前記のような駅側の措置を信頼し、当然駅側が必要な後方防禦措置をとつているということを前提として運転を継続することは許されないこと明らかであるのみならず、被告人の前掲各供述調書ことに検察官に対する昭和四三年八月五日付供述調書中には、「前回申し上げた様に惰行運転中、留置線に入つていた電車の方に気を奪われたまま留置線の箇所を右手に見ながら通過した後も私は多分留置線に入つている電車は誰が運転して翌朝出るのだろうと思い乍ら同僚の運転士の事が頭に残つてそんな事に気を取られて多少ボヤツとしていた為だと思いますが、第二場内信号が黄色になつて注意信号を示していることは眼に入り判つていたものの、それが単に黄色だと思つていた丈で、私の気持はその黄色の信号に従つて四五キロ以下に減速しようということまでは頭が働かず、ただホームが近ずいて来たという点から徐々に常用ブレーキを右の第二場内信号付近から入れ始めていた丈でした。」旨の供述記載があつて、被告人は第二場内信号機(2R)の注意信号の現示を認めながら漫然所定の減速措置を怠つたものであり、右信号現示により駅側の措置を信頼して減速措置をとらなかつたものと疑われるような証拠はない。以上のとおりであるから、駅側の所論後方防禦措置義務を前提として、被告人に予見義務がないとする弁護人の右主張も採用することはできない。

四、定時運転の原則と期待可能性について

さらに弁護人は、国電にあつてはダイヤの遵守が強く要求されており、回復運転なくしてはダイヤの維持・定時運転の確保が困難な現状であるところ、本件の場合、二二〇一F電車のダイヤは仕業票上は二二時三四分東京発、同三八分御茶ノ水着と指定されていたが、東京・神田間の工事のための速度制限の影響により、東京・神田間の運転時分は二分近くを要し、さらに神田駅の停止時分二〇ないし三〇秒を差し引くと、御茶ノ水駅に定時の三八分に到着するためには、神田・御茶ノ水間の運転時分としては、本来二分のところ実際には一分四〇秒程度しか残されていない実状にあつた。被告人は、右の遅れを回復すべく、やむなく神田駅出発後時速六五キロメートル近くまで力行し、さらに、遅れを回復しなければならないとの意識がその後のブレーキ操作にも、何がしかの影響を及ぼしたことは被告人の供述するとおりである。

このような事情のもとで、比較的若年で経験は相当積んではいるが、しかしベテランとまではいえない電車運転士たる被告人に、第二場内信号機の注意信号による時速四五キロメートルの制限速度を、時速として一〇キロメートル程度の運転上の誤差さえも絶対的に生ぜしめないことを期待することは不可能であると主張する。運転取扱基準規程四三条は「列車は、定められた運転時刻により運転するのを原則とする。」として定時運転の原則を定め、とくに国電にあつては、大量・安全輸送を確保するためダイヤを遵守されることが殊の外重要であることは弁護人主張のとおりであり、そのため電車が遅延したときは回復運転をなすべきことが要求されているが、右回復運転を定めた同規程は「許された速度の範囲内で、これを回復することに努めるものとする。」としていて、安全性を度外視してまでの回復運転は要求しておらず、また、電車が遅延した場合も無理な回復運転はしないよう一般的指導がなされていることも証拠上明らかである。しかし、中央線における国電運転士にあつては往々にして電車が遅延しがちであるためダイヤを守るという職業意識が強く、またそれが運転技術の優劣の評価とも関連しがちであるため、多少の無理をしても回復運転をしてダイヤ通りの運転をしようとする職業的な意識傾向が一般的に存在することもまた証拠上これをうかがうことができる。そして、本件事故当時はいわゆるB速の運転時間帯であつて、電車の運転間隔は五分、東京・神田間の運転時分一分五〇秒、神田駅の停車時分二〇秒、神田・御茶ノ水間の運転時分二分であつて、東京・御茶ノ水間の表定時分は四分一〇秒であり、仕業票には神田・御茶ノ水間の所定の運転時分は四分と指定されていたが、当時、東京・神田間に工事による徐行区間があつて、そのため神田駅到着が遅れがちであつたという事情も証拠上うかがうことができ、被告人は当公判廷において、回復運転の気持もあつて普段より深くノツチを入れ、またそのような気持から第二場内信号機(2R)の注意信号をみても減速しなかつたものである旨供述しているけれども、被告人の前掲各供述調書には神田駅は定時に発車し、御茶ノ水駅は客扱いに時間がかかつて発車が遅れがちであるため少しでも早く御茶ノ水駅に到着したいと思つて時速約六五キロメートルまで力行した。第二場内信号が黄色になつて注意信号を示していることは分つたが、それが単に黄色だと思つていただけで、信号に従つて時速四五キロメートル以下に減速しようということまでは頭が働かず、ただ、ホームが近ずいて来たという点から徐々に常用ブレーキを入れ始めた旨の一貫した供述記載が存するのであつて、前記被告人の供述は必ずしも措信しうるものとなすことはできないけれども、何れにせよ、被告人が定時運転を守るという意識があつて、時速約六五キロメートルまで速度をあげたものであることはこれを推察することができる。しかし、本件では被告人が神田駅発車後六五キロメートルまで速度をあげたこと自体が直接問題とされているものでないことは弁護人所論のとおりであり、第二場内信号機(2R)の注意信号に従つて減速せず進行を続けたことの法律上の当否が問題とされているのである。そして、被告人が漫然右の減速措置をとらなかつたものであることは前記認定のとおりであり、本件各証拠を仔細に検討しても、本件において被告人が第二場内信号機(2R)の注意信号の現示を確認したにもかかわらず、所定の減速措置をとることを法律上期待することができなかつたものと認むべき資料は全く存在せず、むしろ極めて容易に右の措置をとりえたものと認められる。定時運転の遵守と安全運転の確保といういわば二律背反的な結果となりがちな二つの要請に応えなければならない運転上の苦心は諒としなければならないけれども、最少限度、信号の現示に従つた運転、とくに本件のように第二場内信号機(2R)が注意信号(Y)を現示し、必然的に前方の第三場内信号機(3R)が停止信号を現示しているような場合においては、安全運転の要請が極度に高いのであるから、信号現示に従つた減速措置をとるべきことが強く期待されるのであつて、右の不遵守につき、被告人にいわゆる期待可能性が存しないとする弁護人の所論は到底採ることができない。その他弁護人主張の諸般の事情を考慮しても、被告人に刑事上の責任を否定することはできないから、弁護人の右主張も理由がない。

(法令の適用)

被告人の判示行為のうち、業務上過失往来妨害の点は、行為時においては刑法一二九条二項、一項後段、昭和四七年法律第六一号罰金等臨時措置法の一部を改正する法律による改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号に、裁判時においては刑法一二九条二項、一項後段、右改正後の罰金等臨時措置法三条一項一号に、業務上過失致傷の点は、いずれも行為時においては刑法二一一条前段、右改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号に、裁判時においては刑法二一一条前段、右改正後の罰金等臨時措置法三条一項一号にそれぞれ該当するが、右はいずれも犯罪後の法律により刑の変更があつたときにあたるから刑法六条、一〇条により軽い行為時法の刑によることとし、右は一個の行為で数個の罪名にふれる場合であるから同法五四条一項前段、一〇条により一罪として刑および犯情の最も重い高橋千里江に対する業務上過失致傷罪の刑で処断することとし、所定刑中禁錮刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を禁錮一年六月に処し、後記の情状により同法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日から三年間右の刑の執行を猶予することとし、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文を適用して全部これを被告人に負担させることとする。

(量刑の事情)

本件は、判示のように、被告人が御茶ノ水駅構内第二場内信号機(2R)が注意信号を現示しているのを認めながら、右現示に従つた減速措置を講ずることなく漫然進行を続けたことによつて惹起された電車追突事故であつて、その結果一〇三名にのぼる多数の乗客に判示のような重軽傷を負わせたほか電車を破壊して物的損害を与えたほか、また、本件事故による後続電車の運転の支障のため約一五万人の電車利用者の足を奪い、さらに国鉄の旅客輸送の安全に対する国民の信頼を失墜させたことも見逃すことはできないのであつて、本件事故は、信号現示に従つた減速措置をとらなかつたという最も初歩的、基本的な運転士としての注意義務を怠つたことによるものでその過失は重大であること、幸いにして死者を生ずることはなかつたけれども本件事故の結果もまた大であることに鑑みると、被告人の刑事責任は重いものといわなければならない。近時、わが国経済の高度成長と人口の都市集中化に伴ない、国鉄の輸送力の増強が要請され、とくに東京都を中心とした首都圏にあつては、高速度大輸送機関としての国鉄の輸送力の増強に期待するところが大きく、そのため、中央線等の国電にあつてはいわゆる過密ダイヤに象徴される各種の安全性についての問題が指摘されていることは弁護人主張のとおりであるけれども、弁護人主張の御茶ノ水駅におけるA・T・Sの問題、あるいは第三場内信号機の問題あるいは運転の慣れ等を考慮にいれても、ごく通常の基本的な注意義務さえ尽していれば本件のような事故は十分に防止できるものと認められるのであつて、公共的交通機関としての国鉄の有する社会的性格、また高速度大量輸送機関のもつ事故発生の場合における結果の重大性に鑑み、被告人に対して判示のような注意義務の履行を要求することは、決して難きを求めるものではないと考える。

しかし、判示のように、本件事故は一酔客が無謀なとび乗りをしたため先行電車が第三場内信号機を僅かに超えて異常停止したことに端を発しているのであつて、前記のような国鉄の安全輸送の確保については、単に運転士その他の国鉄職員のみならず、乗客等国民もこれに協力すべきことが要請されるのであり、本件事故の責任の一端は右酔客が負うべきものと考えられ、また御茶ノ水駅の側において、適切な後方防禦措置をとつていれば本件事故は未然に防止できたとも考えられること、本件被害者に対しては国鉄において見舞金、示談金等が支払われて慰藉が講じられていること、被告人は本件事故の責任を十分に自覚し、反省の情も顕著に認められること等の諸事情も認められるのであつて、その他被告人の運転成績、年令、経歴、生活態度等諸般の情状を勘案し、被告人に対しては、その刑責重大ではあるけれども、国鉄運転士としての職業に誇りをもつて再起することを期待し、その執行を猶予するのが相当であると思料する。

よつて、主文のとおり判決する。

別紙受傷者一覧表(略)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例